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東京地方裁判所 平成6年(ワ)4470号 判決

主文

一  被告は、原告に対し、金三〇〇万円及びこれに対する平成四年一二月一日から支払済みまで年二〇パーセントの割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は仮に執行することができる。

理由

第一  請求

主文と同旨

第二  事案の概要

本件は、被告との男女関係の解消に関して慰謝料の支払の合意をしたという原告が、右合意に基づいてその支払を被告に求めた事件である。

一  争いのない事実

1  原告と被告とは、男女の交際をしていたが、平成四年七月ころ、原告が被告の子を妊娠したことから、関係が悪化した。

2  原告代理人である弁護士保田行雄と被告とは、平成四年八月一四日、次のような合意(以下「本件合意」という。)をした。

(一) 被告は、原告に対し、慰謝料として金三〇〇万円の支払義務のあることを認める。

(二) 被告は、右金員を平成四年九月から毎月四万五〇〇〇円ずつに分割して、原告の指定する銀行口座に振り込んで支払う。

(三) 被告が右分割金の支払を三回分以上怠つた場合は、期限の利益を喪失し、残額に年二〇パーセントの割合による遅延損害金を付して支払う。

3  ところが、被告は、右支払を全くしない。

二  争点

1  本件紛争に関して、原告と被告との間に不起訴の合意がされたか。

(被告の主張)

平成四年一〇月二一日、原告と被告とは、原告の妊娠中絶に関して、書面により不起訴の合意をした(以下、この書面を「不起訴の合意書」という。)。したがつて、本件訴えは不適法であり、却下されるべきである。

(原告の主張)

当時、原告は、子供を中絶でなくし、被告との関係の復活もできなかつたため、絶望のあまり自殺を決意しており(現に、同月二四日、自殺を試みたが、一命を取り止めた。)、その意味を考えずに不起訴の合意書を書いたものである。したがつて、不起訴の合意書における原告の意思表示は、原告の意思に基づくものではなく、無効である。

2  原告は、本件合意に基づく慰謝料請求権を放棄したか。

(被告の主張)

被告は、原告の妊娠後、原告の親から執拗な脅迫、暴行等を受け、それに耐えかねて保田弁護士の事務所に赴くことにしたが、そこでも同弁護士から「示談しないのなら指を詰めて詫びろ。」「今示談すれば三〇〇万で許すが、後なら一〇〇〇万だ。」等と長時間にわたり強談威迫され、真意に基づかずに本件合意をすることを余儀なくされた。そこで、原告本人の意思を確認したところ、平成四年八月二五日、原告は、本件合意に基づく三〇〇万円の慰謝料請求権を放棄する旨の書面に署名指印し、被告に対し、その旨の意思表示をした(以下、この書面を「慰謝料放棄書」という。)。

(原告の主張)

本件合意の後も被告との関係の復活を望んでいた原告は、本件合意の慰謝料の支払について非常に悩んでいる姿をみて、署名指印すれば被告との関係が継続し、結婚することができるものと考えて、被告に求められるまま、慰謝料放棄書に署名指印したものである。したがつて、慰謝料放棄書による請求権の放棄は錯誤により無効である。

第三  争点に対する判断

一  《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

1  原告は、平成二年春ころ、大学法学部の学生である被告と知り合い、平成三年ころには、将来弁護士になることを目指している被告との結婚を願うようになつた。ところが、被告は、当初から原告との交際を遊びと割り切り、お互いの存在が迷惑になつたらすぐに別れようと言い、自ら避妊を怠らないようにしていた。そこで、原告は、被告との間に子供ができれば、被告と結婚することができるのではないかと考えて、避妊していると偽つて被告と関係し、妊娠するに至つた。

2  原告は、平成四年七月ころに、妊娠したことが分かり、被告に打ち明けた。ところが、被告は、中絶を求め、双方の親とも話し合つた末、原告も中絶を決意し、同年八月一日、中絶手術を受けた。

3  原告は、母の勧めにより、被告との関係を清算するため、安田行雄弁護士に被告との交渉を委ね、同年八月一四日、本件合意が成立した。

4  しかし、原告自身は、被告への思いを断ち難く、被告との交際を禁じる母を裏切ることもできないと悩んだ末、同月二〇日、家出をし、ホテル住まいをしつつ、被告の下宿を訪ね、同所に泊まるなどした。原告は、被告が以前と同じ様に接したので、関係の回復ができるものと喜んだ。

5  一方、被告は、本件合意は、原告の親から受けた嫌がらせや暴行に耐えかねた上、保田弁護士から強硬に求められたため、やむなく承諾してしまつたものの、その内容に不満を持つていた。そこで、被告は、原告に慰謝料請求権を放棄する旨の書面を作成させるため、下宿に訪ねてきた原告を泊まらせたりした上、同月二五日に至つて、原告に対し、慰謝料放棄書に署名指印することを求めた。原告は、それにより被告が楽になるのならと思い、また、被告との関係を取り戻せるのならと考えて、被告の求めに従い、署名指印した。慰謝料放棄書には、原告が平成四年八月一四日に合意した被告に対する三〇〇万円の慰謝料請求権を放棄する旨が記載されている。

6  その後、持ち金もなくなつたので、原告は、自宅に帰つた。ところが、九月以降、被告の態度が冷たくなつたので、原告は、最終的に被告の本心を確かめるため、一〇月一八日、被告の下宿を訪ねたが、被告に原告に対する愛情がないことを悟つた。原告は、絶望のあまり自殺しようと考えて、同月二〇日、再び家出をし、同月二一日、被告に連絡して、喫茶店で会つた。

7  被告は、慰謝料放棄書を原告に作成させた後、保田弁護士から、立会人のいない放棄書など証拠にならないなどと言われていたため、立会人を付けて再度慰謝料請求権を放棄させようと考えていた。そこで、同月一八日ころ、原告に請求権放棄の意思を再確認し、同月二一日に原告と会つた際に、その旨の書面の作成を求めたところ、原告もこれに応じる姿勢を示したので、かねて相談していた税理士柏正美に立会いを要請し、同人の立会いの下で、本件合意について作成した合意書を原告から引き渡してもらうとともに、不起訴の合意書が作成された。同書面には、中絶の件に関する何らの起訴をなさないとして、不起訴の合意が記載されている。また、被告は、これと同時に、万一の場合、本件合意による三〇〇万円の慰謝料債務と相殺するために、原告に、原告が被告に対するいやがらせ行為による三〇〇万円の損害賠償債務を負つていることを認める旨の書面も作成させた。

8  原告は、同月二三日、投宿先のホテルで被告外に宛てた遺書を書き、翌二四日、鎮痛剤を大量に飲んで自殺を図つたが、苦痛に耐えかねて救急車を呼び、病院で手当てを受け、一命をとりとめた。

二  不起訴の合意について

前記のとおり、原告と被告とは、平成四年一〇月二一日、不起訴の合意書を作成したものである。

ところで、不起訴の合意は、訴訟契約として有効に行うことができるものであるが、どのような場合でも提訴を不適法とする効力を有するものと解すべきではなく、合意がされた趣旨、合意するに至つた事情等を考慮して、合理的な範囲内において効力を有するものと解すべきである。

本件においては、前記の事実経過からすると、不起訴の合意書は、原告が絶望のあまり自殺を決意して二度目の家出をしていた最中に作成されたものである。すなわち、原告は、いかなる書面を作成しても原告自身にとつてはもはや意味を持たない状況の下で、被告の求めに従つて不起訴の合意書を作成したものということができる。このような不起訴の合意に、原告が右のような危機的精神状況から立ち直り、本件の中絶をめぐる紛争について裁判所の判断を受けたいとの意思を有するに至つた場合にまで、その提訴を許さず、訴えを不適法とする効力を認めることはできないものと解すべきである。このことは、立会人を立て、同人が合意条項を読み聞かせた上、意思を確認したとしても、変わらないと解される。

したがつて、不起訴の合意書によつて、本訴の提起が訴えの利益を欠く不適法なものであるということはできない。

三  慰謝料請求権の放棄について

原告が慰謝料放棄書に署名指印したことは、争いがなく、この原告の意思表示が有効であれば、本件合意に基づく原告の三〇〇万円の慰謝料請求権は消滅したというほかはない。

前記認定の事実経過によれば、原告は、それにより被告が楽になるのならと思い、また、被告との関係を取り戻せるのならと考えて、被告の求めに従い、慰謝料放棄書に署名指印したというのである。原告は、このことから、原告の意思表示は錯誤で無効であると主張する。

これが錯誤になるとするなら、動機の錯誤というべきところ、右動機のうち、被告を楽にしてあげたいという点については、現に被告は本件合意により多額の債務の負担を約束してしまい苦境にあつたのであるから、このこと自体には何らの錯誤もないというほかはない。

次に、被告との関係を取り戻せるのなら署名指印しようと考えたという点については、原告は、右動機を被告に言わず、被告も署名指印を求めるに当たり、何らの約束もしていないと認められるから、右動機は明示的に表示されたとはいえない。しかし、前記事実経過からすると、被告はもともと原告とは結婚する意思はなかつた上、原告の母のいやがらせや保田弁護士からの厳しい追求を受けて不本意な本件合意を締結させられてしまつていたことから、原告に対する愛情を全く失つていたと推認されるところ、それにもかかわらず原告と変わらぬ態度で接し、原告を下宿に泊めたりしているのは、専ら本件合意の効力を覆すために慰謝料放棄書を作成させる目的によるものであつたと認められるのであり、被告は、原告が被告の示した態度から被告との関係を回復することができるとの期待を抱き、その期待の下に慰謝料を放棄する旨の意思表示をしたということを十分知つていたものというべきである。そうすると、右動機は黙示的には表示されていたといつてよい。

ところで、一般的には、明確に結婚の約束を前提としたというのではなく、単に男女関係の継続や発展を期待して相手方に利益を与える意思表示をすることは、相手方にはその意思がなく、相手方が表意者の意図を知つていたとしても、直ちに要素の錯誤にあたり無効となるとまでいうことはできないものと解される。しかし、本件においては、被告は、むしろ、積極的に原告のこのような期待を利用して慰謝料放棄書を作成させようとして、自己には原告との関係を回復させる意思が全くないにもかかわらず、あえて友好的な態度をとつたと見られるのであり、原告がこのような被告の意図を知つておれば、慰謝料放棄書に署名指印をすることはなかつたと解される。したがつて、原告の意思表示には要素の錯誤があつたものとして、無効となるものと解するのが相当である。そうすると、原告が本件合意に関わる慰謝料請求権を放棄したとはいえないから、原告は右請求権を有するものである。

なお、被告が本件合意の成立経緯について主張する点は、それに近い事実があつたものと認められるものの、それ自体で本件合意の効力を左右するものではない。

(裁判官 大橋寛明)

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